ジェシー・ガーランドの事情
ジェシーは自分の寮に帰ると、ロッカーズ情報部によってデータ化されたトマシュの小説――「赤い国旗の下で」に目を通した。
気弱な大学生の青年が主人公の物語だった。青年は親友に誘われてロシアに反感を持つ組織に入るが、そこでの自分のあり方に葛藤する。やがて青年は次々に起こる出来事の数々に現実味を抱けず、現実と妄想の間を彷徨うようになってしまう。ほどなくして国で起こった反乱の中で、青年は自身の死の淵に陥ったとき、初めて「この世界で生きていた」という実感を得る。青年にとってそれは「恍惚だった」そうだが、読者にとってはあまりにも皮肉で救いのないストーリーだ。
ジェシーはバッドエンドの暗い余韻に浸されて気が滅入った。
ロッカーズが回収するほどの価値がこの小説にあるのか、ジェシーにはわからなかった。けれどこの時代に生きた青年の像がそのまま反映されている、ひとりの人生の記録のような物語だ。
トマシュが書いたんだよな、この物語を。文は固く感じたが、心理描写はとてもリアルだった。自分が感じた経験をもとに書いたのだろうか?
光を失ったトマシュの瞳が脳裏をかすめる。トマシュは死ぬ直前、この小説の主人公と同じく「生きていたという実感」を感じたのだろうか。
「――あまり入れ込みすぎるな」
レイの呟きに、はっと意識が戻される。レイが紅茶色の瞳をわずかに細め、コーヒーを差し出していた。寮は、レイと共同なのだ。このクソがつくほどおカタい男と、仕事も私生活もずっと一緒だと思うとうんざりする。まるで自分がこの男に監視されているようだ。
無言でコーヒーを受け取り、レイを見つめる。彼は自分用に淹れたもう一杯に口をつけ、ホログラム端末をいじっている。レイの淹れたコーヒーは薄かった。
「あんたはまだコーヒー淹れんの、ヘタだな」
「お前の年代と違って、今はコーヒーなんて滅多に飲まないんだ。教わった通りに淹れたつもりなんだがな…」
わずかに苦笑を浮かべるレイ。
その整った顔を見つめながら、ジェシーは三ヶ月前のことをぼうっと振り返る。
ほんの三ヶ月前まで、ジェシーは1923年のアメリカにいた。シカゴの田舎から家出同然に都会へ繰り出し、ニューヨークのマフィア直営レストランで雑用をしていたのだ。少ない給料でアパートに一人暮らし、朝から晩まで仕事づくめだったが、友達もいたし好きな女の子もいた。
そんなある時、仕事場のレストランに入ってきた新人ウェイターが、レイ――レイモンド・バトラーだった。彼は世間に疎いところがあり、少し浮いていた。料理もろくにできず、コーヒー一杯もまともに淹れることができない彼に手ほどきをしたのはジェシーだ。レイは10ほど年上だったが、友達として仲良くしたいと思っても、一定の距離を保っているように見えた。私生活にも謎が多く、仲間内ではもっぱら「ミステリアスマン」だと言われていたっけ。
ことが起こったのは7月26日だ。
あの日はオレにとって大切な日になる、かもしれなかった。
その日、同じ職場で雑用してた親友のカレンが、掃き掃除の手を止めて言ったんだ。
「ねえジェシー。今夜は早くに店を閉めるでしょう? そのあと、またここで会えないかな」
「あ、ああいいぜ」
オレは即答した。オレはカレンが好きだった。あんまり目立つタイプじゃないけど、綺麗な赤毛で、笑うと愛嬌のある子だ。オレに言わせれば、サイコーに可愛かった。
もしかしたら、カレンはオレに告白でもしれくれたかもしれない。仲はけっこう良かったし、恋愛話もしたことがあった。それか、プレゼントでもくれたかも。オレは誕生日が近かった。
でも、その日は最悪の日になった。
一度アパートに帰っていた俺が、カレンとの約束のためにもう一度店に向かおうとした時、突然現れたレイが目の前に立ちふさがった。店に寄るのにいつも通る細い裏路地に入ろうとした時だった。その路地は治安が悪くて酔っ払いも強盗も見かけるけど、近道だから早足で抜けていた。レイのような男が通る道とはとても思えなかったし、なんだかオレがここを通ることを知っていて待ち伏せされたような感じで、不気味だった。
「――レイ? なんでここにいんだよ」
レイは黙ったままオレの腕をきつく掴んだ。何か言おうとしているようにも見えたけど、ついに言葉はなかった。
レイの裂れ長の目は真剣な色をしていたが、それがかえって怖くなって、オレはレイの手を振り払って逃げようとした。でも掴んだ手を離してはくれなかった。
「なんなんだよ、放せよ!」
「――だめだ。来い」
「は? どこに」
レイは答えずに、店とは反対方向の地下鉄の方へ歩を進めた。
「ちょっ…待てよ、これから約束が…」
「いいから来い。お前には別の仕事をやる」
「仕事ォ?」
「――お前には才能がある」
誰が思う? まさか600年先の未来に連れて行かれるなんて。
2516年のロッカーズに連れてこられたオレは、呆気にとられて大切な約束のことすら頭から抜け落ちた。建物も服装も食べ物の何もかもが違う異世界、まるで夢を見てるみたいだと思った――いや、実際夢だとしばらく本気で思ってた。
その時のオレは興味とかわくわくする気落ちとかじゃなく、戸惑いのほうが大きかった。
どこだここは、現実か? なんだこの状況は?
そんな疑問符ばかりが脳内を忙しく駆け巡った。
そうして不安な気分のまま、ロッカーズ内の部屋でオレは長い時間待たされた。
やがてレイがルイーズとともにやってきて、告げた。
「お前もこれからロッカーズ社員だ」
有無を言わせず、とはまさにこのことだ。拒否権は与えられなかった。
なんでだよ。
そんな問いかけすら答えてくれない。
見知らぬ時代で一人も味方のいない中、誰かに訴えることもできなかった。
これじゃ誘拐じゃないか。なぜオレがこんな目に。
ジェシーは、目の前で薄いコーヒーを首をかしげながらすする男を暗い眼差しで見つめた。
こいつが嫌いだ。今は仕事上の相棒ということになっているが、オレから普通の生活を奪った男だ。どうして信用できる?
はっ、「入れ込みすぎるな」だって? 1923年の人間だったオレをこんな仕事に巻き込んだあんたはどうなんだよ。
そう思ったが、口には出さない。
そのうち1923年のロッカーを使って、自力で帰るつもりだ。帰って、カレンに会おう。それまでこの男を警戒させるようなことは極力するもんか。